「歴史講座 筑波山信仰の歴史」
公民館講座「筑波山信仰の歴史」を受講し,今日は筑波山神社・飯名神社・旧六所神社を巡ってきました。講師は,筑波山信仰といえばこの人!井坂敦実先生です。先々週,机上で筑波山信仰の起源や信仰圏のお話,廃仏毀釈のお話を伺い,今日は現地の巡検です。
まず,筑波山神社。
筑波山は関東平野に突出した独立した山容をしていたため,古代から自然崇拝や山岳信仰などがあったとされ,筑波山神社はその延長上に発展したとされます。常陸国風土記や万葉集,古今和歌集など記録書や歌集のなかでも度々登場し,当時から中央にも広く知られる存在でした。
延暦元年(782)、徳一大師が中禅寺を開山するなど神仏混合の時代が長く,中世には筑波山麓に多数のお堂が建ち並んでいたそうです。
江戸時代に入ると筑波山は江戸城から見ると北東の方角に当たるため鬼門鎮護の寺院として幕府から庇護され徳川家康から寺領500石の朱印状を賜り,2代秀忠,3代家光と社殿の造営を繰り返し壮大な境内が創出しました。5代綱吉の代にさらに1000石が加増され計1500石の社領となり日光東照宮や伊勢神宮などに肩を並べました。
明治時代初頭に発せられた神仏分離令により仏式が廃され,神社として独立しています。
ということで,神社の階段を上がって正面にある立派な拝殿は,廃仏毀釈の後に建てられ昭和三年に増築改修されているために,今回はパス。今回,じっくり拝見したのは,寛永十年(1633年)に家光の命によって立てられた厳島神社・日枝神社・春日神社です。(上の1枚目の画像が厳島神社(弁天様),下記画像右から日枝神社,春日神社・筑波山神社拝殿です。)普段は入れないところまで入れていただきました。屋根は修復されているそうですが,柱や梁,蟇股や脇障子に施された彫刻は,350年以上も前の物とは思えません。
次に社務所で,徳川将軍家より寄進された狩野探幽作と言われている「三十六歌仙絵額」や山中で発見された「花卉双蝶八花鏡」を見せていただきました。さすがにこれらは写真の撮影ができませんでした。
その後,廃仏毀釈で破壊されてしまった遺構を求めて拝殿裏の山に入りました。所々平らな場所があり,草に覆われた斜面には石積や石段が見られます。最も奥に,中禅寺を開山したと言われている徳一大師の墓所といわれているところがありました。
中央奥の人物の足下に穴があり,そこに石塔が建っていたようです。これも廃仏毀釈の際に破壊されてしまったようです。
拝殿前の喧騒からちょっと裏に回ると,数百年前の歴史が草むらに埋もれているなんてちょっと驚きでした。
拝殿裏の涼しそうな所で昼食を取り,午後は飯名神社に向かいました。
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