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2008年4月 6日 (日)

富士山

下の娘の入学祝に富士山に登ってきました\(^_^)/
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4月初めの富士山頂にしては,雪も無さそうだし妙に軽装?
うむ~,でも富士山です。

桜の花の満開の下の階段を登ること二十三段,一気に登頂です。
えっ,標高は?
3776mでないことは確かです。

Fjs1実は,この富士山,つくば市内にあります。
以前から千現にあるという話は聞いていたのですが,場所が分かりませんでした。一生懸命に東大通りの西側,二宮公園付近を探していましたが,反対の倉掛の方でした。(地図は最後に)
山頂?に石碑があり,この「千現塚」の由来が記されていました。以下に碑文です。(なお旧漢字で表せなかったものはJIS対応の字で表しました)
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千現塚由来
元禄三年1690年隣村小野崎村現谷田部町小野崎と藏掛村花室現桜村倉掛同花室との間に地続原野の境界争の訴訟が起された当時この原野の草資源は家畜の飼料と又草葺家根の材料として貴重なものであった当倉掛はこのため有志相計り富士山浅間神社に願望達成を祈願した結果元禄十年1697年時の幕府の判決は当部落の願が入れられ境界の設定を見ここに於いて当方はこれを記念し富士山を眺望するこの地に塚を築き祠を建てて浅間神社を祀った喬木うつ蒼と茂り付近住民の信仰と道しるべとして親しまれた研究学園都市の既成を見変貌著しいこの地に昔日を偲びこの一帯を千現町と改め記念碑を建て後世につたえるものである
 昭和五十四年四月吉日
                 桜村助役  松本敏男撰文
                 桜  村  長  藤澤勘兵衛謹書
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Fjs4 なるほど,300年以上も前にそんな出来事があり,それが今日までしっかり伝えられていることは,驚きであり,また素晴らしいことだと思います。

それにしても千現は,なぜ「浅間」でなく「千現」なのでしょう?「千現」をネットで調べても,ほとんどが「つくば市千現」の地名に関わるものばかりでした。
しかし,学園地区の地名にはそれなりの由来があるのですね。

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コメント

茨城で千現といえば石岡市三村の千現様の
ことを指します。三村の常磐線 踏切の近くに浅間神社が
あり占いをしているのが千現様です最近でも家相とかを
占っています。浅間は神社で千現は占い師のことをいいます

投稿: ソルジャー | 2009年2月25日 (水) 13時02分

おお! ソルジャーさんありがとうございます。
>浅間は神社で千現は占い師のことをいいます
なるほど。今までのもやもやが一気に晴れていきます。
此の地にも千現様がいらっしゃったということなのでしょうかね。

三村の踏切は何度か通ったことがあるのですが
いわれてみれば確かに浅間神社がありますね。
今度寄ってみたいと思います。

今後もよろしくお願いいたします。

投稿: 平左衛門 | 2009年2月25日 (水) 22時30分

あらためて石碑をみてみると疑問が湧いてきました
千現塚由来というのは富士講の富士塚または富士山の
ことで千現塚という呼び方が一般的でないです
下のほうにも千現神社の文字がありますが
浅間神社に祈願とありますから敢えて千現神社と
しているのには理由がありそうです。

この石碑は桜村から学園都市になるときに造られた
ものなので富士講の時代から400年も後なので
既に浅間神社が無くなっていたからとも考えられます。

大角豆に千現塚古墳が在るのですが
場所は桜南小学校と下広岡交差点の中間に
あるセブンイレブンの向い側です
現在ちょうど発掘作業中のようです。

富士山が造られた江戸時代初期の大角豆の人口は280人で
倉掛の人口も同じ様なものでしょうから
村人は顔見知りで千現塚古墳もだれもが知っていた
でしょうから千現の文字が使われたのかも?。

投稿: ソルジャー | 2009年3月14日 (土) 17時01分

ソルジャーさん コメントありがとうございます。

碑文によると塚の上に祀ったのは「浅間神社」なのに
どうして「千現塚」になってしまうのでしょう。

大角豆にあるのも「千現塚」古墳なのですね。
谷田部の台町には,「浅間塚」古墳がありますね。
「千現」の呼び名は,倉掛・大角豆で呼ばれていた
と言うことなのでしょうか。

投稿: 平左衛門 | 2009年3月16日 (月) 23時52分

倉掛・大角豆は桜村になる前は九重村で
同じ地域に二つも千現塚という呼び方が
あるのは紛らわしいですよね
塚が造られた江戸時代は倉掛は旗本新庄氏麻生藩の
領地で大角豆は府中松平氏石岡藩で
分かれていたので同名の塚があっても良いのかなと
おもえますし、造った当時は浅間と呼んでいて
富士講の衰退で長い間この塚は忘れられていて
最近になって千現塚と呼ばれたとも考えられます。

頂上にある古そうな石にも富士とありますし…。

千現塚古墳は5世紀頃でしょうから
古さが違ますから千現の語源はこの古墳では?。

桜村史、つくば市史の古文書を見てみましたが
領地争いの古文書には特に千現塚の記述は無かったです。

投稿: ソルジャー | 2009年3月17日 (火) 02時11分

ご慧眼恐れ入ります。

敬服ついでに,ご教示いただければ嬉しいのですが
学園地区の地名の付け方に興味があります。
少し調べたのですが,全く分かりません。
「天王台」「観音台」「稲荷前」辺りは,神社仏閣から
「二の宮」は,尊徳の馬鹿堀から?という予想は付くの
ですが,「松代」「竹園」「梅園」「並木」など皆目
見当がつきません。
まさか,松竹梅の語呂合わせとも思えないのですが。
小字からでも付けているのでしょうか?
何かご存じでしたら,教えてください。
あるいは,資料などがあればお示しいただければ嬉しいです。

投稿: 平左衛門 | 2009年3月18日 (水) 22時49分

地名に興味が有り良く調べて居る者です、竹園は、(チクエン)竹藪だった所みたいです。
梅園、松代、並木、についても調べて見ましたが詳しくはわかりませんでした

投稿: 匿名つくば市民 | 2017年7月23日 (日) 07時46分

匿名つくば市民 様
ほったらかしのブログにコメントいただきありがとうございます。
わたしも,竹園,吾妻は小字からきているらしいという話は聞いたことがあるのですが,確かめられませんでした。

つくば市内では,新しい住宅地に次々に新しい地名がつけられていますね。誰がつけているのでしょうか。
花園はまだしも,流星台はやり過ぎだろうと思うのですが。デベロッパー受けするのでしょうか?

投稿: | 2017年7月23日 (日) 19時59分

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